晴耕雨読

日々の晴耕雨読の履歴です。

邪馬台国は伊勢である。

これまでも考えてきたことであったが、先日Google AIに確認したところ、邪馬台国が伊勢、伊勢遺跡ではなく三重県 伊勢市であったことを主張する学説は存在しないようなので、ここに概説を述べる。



邪馬台国の位置、もしくは卑弥呼が誰であったかを論ずるにあたっては、記紀と魏志倭人伝の解釈を基準/出発点とするのが通常である。

ただし、全ての記述を矛盾なく説明することは難しく、かといって何かを疑うとその点が説明のつかない疑問点となり説得力、合理性を失ってしまう。

このため、記紀と魏志倭人伝の記述は基本的に信じることとし、陰謀論や政治的背景などではなく、明らかに矛盾する、もしくはこういう解釈が可能であると合理的に説明が可能である場合に限り、記述や数字を読み替えることとする。



まず、出発点は魏志倭人伝の倭の女王の朝貢とする。

魏志倭人伝では、邪馬台国や卑弥呼と魏に外交があった時期は景初2年や正始元年である記述があり、これは西暦238年や240年にあたり、卑弥呼はこの時代の人物ということになる。

この時代の日本側の記録がどうなっているかというと、日本書紀では、仲哀天皇、神功皇后の時代である。日本書紀でも神功皇后の章で魏志倭人伝を引いており、神功皇后39年が景初3年であり、魏に遣いを出したと記載している。日本書紀の編者は倭の女王 卑弥呼を神功皇后と考えていたようである。

ただし、日本書紀の神功皇后の事績はほとんどが新羅百済関係の記載であり、特に神功皇后55年の百済の肖古王が亡くなる記載は、百済の近肖古王が亡くなる375年に対応している可能性が高く、神功皇后が活躍した時代はこのころであると考えられる。

この矛盾は干支二運繰り上げ説として本居宣長の時代から指摘されており、魏志倭人伝に関する記述はそこだけ唐突に言及されているのに対し、新羅・百済との関係はその前後の事績も含めて朝鮮側の史書である三国史記との整合もよいことから、神功皇后は350年から380年ごろの人物と考えるのが妥当である。

日本書紀の編者は魏志倭人伝の記述も知っており、これにも言及したかったところであるが、倭の女王となると神功皇后の他に対応する人物が見いだせず、120年のずれを感じつつも干支を頼りにここに当てはめたのではなかろうか。



さて、となると、卑弥呼は神功皇后からさかのぼること120年ほど前の人物ということになる。

記紀の、特に雄略天皇より前の天皇は寿命(宝算)が尋常でなく長いことが有名であるが、人の寿命が2000年やそこらで変わることはなく、おおよそが60年くらいのものであろう。

このころの平均寿命は40歳くらいであったと言われることもあるが、それは乳幼児の死亡率が高いからであり、成年まで生き延びた人は、おおよそ60歳くらいまでは生きたと言われている。干支の一巡が60年であることもそこに関係するのであろう。天皇を始めとした貴族であるならば、当時衣食住に最も恵まれた人たちであり、成年まで生き延びた天皇貴族の寿命を平均すれば、60歳くらいだったことは十分可能性がある。魏志倭人伝においても人はみな長生きで百歳から八十九十生きると記載がある。春秋で1年と数える2倍歴で書かれているとしても、40~50歳は生きたことになる。

この場合、一世代は今とあまり変わらない30年くらいと考えられ、ある人物が主として活躍する時期は、だいたい20歳で親世代の跡を継ぎ、50歳で子世代に跡を託す30年間がモデルケースとなろう。

もちろん、病気等で早世し、早く代替わりすることもあるだろうが、平均すればだいたい20~30年で一世代と考えられる。

この場合、120年ほど前となると、4~6世代前となり、仲哀天皇は即位後すぐ亡くなったため考えないとすると、成務天皇⇒景行天皇⇒垂仁天皇⇒崇神天皇⇒開化天皇⇒孝元天皇で6代前となり、邪馬台国や卑弥呼の時代は孝元天皇から崇神天皇の時代であったと考えられる。



そして、邪馬台国 畿内説で卑弥呼の墓として有力とされる箸墓古墳とその主、倭迹迹日百襲姫命はこの時代に近い人である。ただし、百襲姫は孝元天皇の先代、孝霊天皇の皇女であり、魏に遣いを送った238年当時はすでにかなり高齢であったと考えられる。なぜならばこの成務天皇から孝霊天皇は記紀ではいずれも60年以上の治世が記載されており、2倍歴と考えても120年前の240年ごろはちょうど 崇神天皇の末期にあたるが、百襲姫は崇神天皇10年に死去し、箸墓に葬られた事績が出てくる。

従って、20~30年の話であるが、景初2年、238年に魏に使いを出した卑弥呼が百襲姫だとするとわずかに年代が合わず、年代的には百襲姫の跡を継いだ豊鍬入姫命が合致してくる。

ただし、魏志倭人伝には卑弥呼はすでに年をとっており、夫はない、という記述もあり、これは百襲姫の状況に類似する。日本書紀では百襲姫は大物主の神の妻であり、つまり神と結婚した身であるということであろう。



百襲姫を卑弥呼とする説の場合、その跡を継いだ壱与/台与が豊鍬入姫命に当たるとされ、台与と豊鍬の読みの類似性が指摘される。一方で、台与は13歳で擁立されたとされるが、これは豊鍬入姫命の跡を継いだ倭姫命が非常に年若く斎宮を託されたことと類似する。

倭姫命は垂仁天皇の第四皇女であるが、日本書記によれば、倭姫命は垂仁天皇15年に皇后となった日葉酢媛命の第四子で、斎宮を託された記述は垂仁天皇25年に記載されている。おそらく4~5歳のころに跡を継ぐことが内定し、成人を以って正式に後継として擁立されたのであろう。



つまり、卑弥呼⇒台与の流れは、百襲姫⇒豊鍬入姫命⇒倭姫命の流れが混じって伝わったものと考えられ、238年に魏に使いを出した人物が誰かとすると、それは 豊鍬入姫命だったのではないかと考える。あるいは、卑弥呼はもともと姫命の読みが伝わったものであろうから、特定の人物をさす言葉でなかったとも考えられる。



魏志倭人伝のその前後にある倭国内の争乱は、 崇神天皇の四道将軍の遠征や垂仁天皇の狭穂彦王の反乱などを差すものと思われる。

崇神天皇65年には、任那から使者が来たことが記載されており、垂仁天皇2年には纏向に都をつくり、任那に赤絹を送った記載がある。また、新羅との外交の記録も多くのこり、この頃大陸との往来が多かったものと思われる。

相手が魏ではなく任那となっているが、当時は任那が大陸外交の窓口となっていたとすれば、倭国側から見れば任那に託して魏に遣いを出したと考えてもおかしくはない。また、本来日本書紀の編者は卑弥呼を神功皇后と考えていたと考えれば、この時代に魏と外交があったことは時代的におかしく、意図的に任那と解釈したのかもしれない。

この外交記録が魏志倭人伝における正始年代の外交記録に対応するものと思われる。実際正始元年と4年の記録は倭王からの使者であると記載されている。魏志倭人伝上には倭の女王だけでなく倭王も登場する。



ここまでの考察を踏まえて邪馬台国がどこであったのか、魏志倭人伝の記述を解釈する。

邪馬台国の場所は大きくは九州説と畿内説があるが、九州説はどうしても水行10+20日、陸行1ヶ月の解釈ができず、いくら古代であってもそれだけの時間を移動すれば九州を飛び出してしまう。この距離感を考えればやはり畿内周辺にあったと考える方が自然である。

一方で畿内説の場合は、不弥国を出てから先、南へ水行する。と書かれている記述と地図が合わない。不弥国までが北九州であることに異論は少なく、そこから船に乗るわけだが、近畿大和の地は北九州の東にあり、方角が一致しない。

ただしこれは、正しい日本地図を知っている現代人だから出てくる発想である。一般的に、ある地点から出発して何回も方角を変えて進み到着した地点が、出発した地点からみて結局どの方角にあるかを観測することはかなり難しい。

これは慣性航法と言われ、これを行うには、移動中に継続して進行方向と距離を積算し、地図上で追跡する必要があるが、現代でもGPSと組み合さなければ誤差が蓄積し、特に長い距離を移動した場合は計測が困難になる。

GPSはもちろん、地図すらない古代において、10日や20日も移動して、それも整備された街道ですらなく、風や潮に流される船や道なき道を行く山越えの末に到着した地点が、出発地点に対してどちらの方角にあるかを知ることは不可能である。天測により、ある地点の緯度は把握できる可能性はあるが、経度を計測できるようになるのは大航海時代になってからである。当時は地球が丸い認識すら無い。

では、南という方角がなにを差しているかという点であるが、これは先に書いた通り、不弥国を出て、南へ水行する。という意味であろう。南へ漕ぎだすという意味である。当時、不弥国と思われる九州遠賀川あたりから船に乗るとすると、出雲へ向かう北ルートか、瀬戸内海を行く南ルートがあるが、大和への通常ルートとして、単に瀬戸内海ルートを選択したということであろう。関門海峡を抜けて瀬戸内海を陸地伝いに進むとしばらくは南に進むことになる。おそらく宇佐市にも立ち寄ったことであろう。それからは大きく東に移動することになるが、船上で夜を明かすことなどなく、風待ち潮待ちをしながら、呉、松山、尾道、など北へ南へ寄り道しながら少しずつ東へ進んでいったことになる。結局元の不弥国からどれくらい進んだのかなど、時間でしか測れないわけである。

中国に西洋人が来たとき、彼らは南蛮人と呼ばれた。出発地点は西であり、おそらく彼らの国が遠く西方にあることは知識としては知られていたであろうにも関わらず、南蛮人と呼ばれた。中国へは南の東南アジアから入ったからである。行きつく先が東であっても、北ルートと南ルートがあって、南ルートを選択したなら、南へ水行する。と記録されるのは不自然ではない。



その後、投馬国からも南へ向かい、邪馬台国へ到達する。投馬国が瀬戸内海の国だとすると、南へ船出するのは少し違和感がある。その地点での東西南北を観測するのは当時でも可能であり、陸伝いに船を進めたとしたらおおよそ東へ向かっていることは認識できたと考える。ただ投馬国はおそらく中国地方の瀬戸内海沿岸のどこかであり、そこから出立するにあたり、東ルートといえば陸路で畿内を目指すことを指したのではないか。北は山を越えて出雲へ至る道、そして南側にある海へ出る場合は、南へ出発すると呼んだ可能性は考えられる。

なお、投馬の国は、北九州を出て大阪湾に着くルートが合計水行20+10日=30日だとして、そのうちの20日で到達することから、おおよそ2/3の位置にあるとすると、福山から岡山の一帯、吉備の国にあったと考えられる。



投馬国の南へ出立して水行10日で大阪湾に至る。大和川を遡り奈良盆地に到達したものと考える。ここからが邪馬台国の勢力圏である。ここから女王の居る都まで陸行1ヶ月の道のりとなる。

女王 卑弥呼は、百襲姫から豊鍬入姫命の2代に亘って体制が整ったので、最初は大神神社や笠縫邑を拠点としたが、日本書記によれば倭姫命が垂仁天皇の命を受け垂仁天皇25年に天照大神の鎮座地を探す旅に出ている。大和の地を出て、宇陀⇒近江⇒美濃と鈴鹿の山を周り込んで伊勢の国に至った。伊勢は東から波が打ち寄せる東の果ての地であり、天照大神が鎮座するにふさわしい場所であったと考えられる。ここに斎宮を建て、女王の居る都とした。ここまでが日本書紀にある記載である。

つまり、邪馬台国とは、纏向の宮を政治の中心とし、その後背の山地を回り込んだ東側、太陽の昇る海際に神聖な奥の院を置き、そこを祭祀の中心とする広大な国であったと考えることができる。陸行1ヶ月は、この大阪難波の津に着いて奈良を通り伊勢に至る山越えないしは近江、美濃を迂回する行程であったと考えられる。



この解釈に基づくと、魏志倭人伝に伝わる女王の居所、楼観、城柵があった場所は、日本書紀にある五十鈴川のほとりの磯宮ということになるが、この場合、これらを完成させたのは倭姫命であるので、女王の都が完成するのは台与の時代ということになる。魏志倭人伝は時系列順に書かれているわけではないので、倭人伝の地理、風俗は魏志が成立した280年~300年の頃の話で、朝貢等の歴史は240年頃の話が書かれているとすればおかしな点は無い。



とはいえ、倭人伝には240年~250年ごろしか外交の記述がなく、それ以降は交流が途絶えていて倭国の地理風俗の情報更新も途絶えていたと考えると、240年ごろ、すなわち豊鍬入姫命の時代には伊勢の宮がある程度開かれていた方がより自然ではある。

ここで、古事記の記述では、豊鍬入姫命は豊鉏入日売命となっており、伊勢大神の宮を祭ったとあり、倭姫命は倭比売命であり、伊勢大神宮をお祭りになった、とある。たった二言の記載しかなく、単なる表記ゆれの可能性もあるが、この記載の違いに意味があるとすると、豊鉏入日売命が宮を建て、倭比売命はそれを継いで祭ったようにもようにも解釈できる。

さらにホツマツタエでは、崇神天皇39年に豊鍬入姫命が近江⇒美濃を巡り伊勢の地に到達し、高宮を造ったと記載されている。伊勢神宮外宮の多賀宮は古くは高宮と称されたとされ、この多賀宮が伊勢に造られた最初の宮である可能性が考えられる。ホツマツタエでは、その後倭姫命が磯部に宮を移したことになっているが、これが日本書紀でいう五十鈴川のほとりの磯宮ということであれば、整合する部分も出てくる。

こちらの解釈に基づくと、倭人伝が言う女王の居所、楼観、城柵があった場所は、現在の伊勢神宮外宮の多賀宮ということになる。



なお、倭人伝には女王国の先の記述があり、東の海を千里ほど渡るとまた倭種の国があるとしている。朝鮮半島⇒対馬⇒壱岐⇒末盧國(松浦)のそれぞれがいずれも千里であるとされているので、伊勢から東へ漕ぎだしそれらと同等の距離の海を渡った先とすると、名古屋、豊橋、浜松あたりだろうか。東海地方にも登呂遺跡をはじめとして3世紀ごろの大規模遺跡がいくつかある。

侏儒国は、女王国の南であるから、志摩半島であろうか。 裸国、黒歯国は女王国から東南へ漕ぎだし、志摩半島を回った先1年かかって九州沖縄へ至った先であろうか。